投稿するときにタイトルを付す必要があるSNSには何があるだろう。note以外、すぐに思いつくものはない。
執筆者はタイトルを付す作業を通じて他者の視点を内面化することができ、自身の記述の意義についてより自覚的になる可能性がひらかれる。と、わたしは思う。
投稿するときにタイトルを付す必要があるSNSには何があるだろう。note以外、すぐに思いつくものはない。
執筆者はタイトルを付す作業を通じて他者の視点を内面化することができ、自身の記述の意義についてより自覚的になる可能性がひらかれる。と、わたしは思う。
短文を前提にしたSNSという言論の場は衝動的な思考の発露を容易にするいっぽう、ブログには何となく長い文章を書きたくなる。ここでは、思考を記述しては削除・修正し納得いけば投稿する、という過程がSNSにおいてよりも強調されるように感じる。
それがブログという媒体の優れた点であり、私がSNSからの移住先としてブログを提案するのもそういった事情からなのだ。しかし、求められる分量や推敲の水準が高すぎると情報発信の欲望を充足するための行為それ自体が高い精神的負荷を伴うものになってしまい、結局移住先として機能しなくなるので、その辺の適切なさじ加減をわたし自身のブログ実践によって確立していく必要がある。
……という考えを表明するためにここまで字数を使うようでは、まだまだ修行が足りない。上記の内容をSNS以上・おじさんブログ未満に調整すると、以下のようになるのではないか。
まだまだブログのツイッター的使い方を確立できていない。思考の発露と意見の表明のどちらでもない方法か、あるいはどちらでもある方法を探索したい
本サイトを開設した目的を家族に話していたときに、「サイトを持つことは土地を持つことに似ている」という言葉が頭に浮かんできた。
サイト所有者とは自分の土地を持っている者、いわば地主である。何を作ってどこに出荷するか、自由に決定できる。これに対してSNSの利用は、地主の農地を借りて農業をする小作人の労働と類似している。作物の栽培方法、出荷先から使う農薬まで、さまざまな事柄があらかじめ地主(サービス提供者)によって決められている。
ここで念頭に置いているのは、一般的なSNSによくみられるさまざまな「方法の規定」と「力の不均衡」である。
以下は、SNSのサービス提供者が決定しておりユーザ側で自由に変更できない事項の例である。
プラットフォームの提供者による表現方法の規定は、SNSでの情報発信を手軽なものにする。ユーザが検討すべきことが少なくて済むためだ。SNSが、その制約の多さにもかかわらず、オンライン・コミュニケーションの手段として現在最も広く普及していることにもうなずける。
一方で、多くの制約を甘んじて受け入れることで可能になるSNSでの手軽な交流には、脆弱性も潜んでいる。最も注意すべきことは、サービス提供者が、ユーザのアカウント作成時に交わした取り決めやサービス全般のありかたを、一方的に変更できるということだ。地主と小作人の関係がそうであるように、サービス提供者とユーザの間にも、不均衡な関係がみられる。小作人が畑を借りた当初には、畑の脇の納屋に道具を置くことが許されていたとしよう。ある朝かれが畑に出た時、「1か月あたり8ドルのプレミアム会員費を支払わなければ、この納屋は使えなくなりました」という立て看板が設置されていて、納屋には鍵がかかっていた、ということが起きない保証はないのだ。
もちろん、こういった事象は無料のウェブサイト作成サービス(例えばまさに今あなたが読んでいるこのサイトも、WordPress上で作成されている)でも起きうることだ。ブログの方がSNSよりも比較的ユーザに大きな裁量があるというだけで、ブログも、何かのプラットフォームを利用して作成するならば、本当の意味で我々を地主にするわけではない。
それでもなお、ブログの作成を推奨したい。サービス提供者の意思で広告を自由に表示できるSNSと異なり、サービス提供者による広告表示に制約のあるブログはメタクソ化しにくいからだ。
SNSは基本的に「多くのユーザの投稿を一覧する行為」を主軸に置いていて、その一覧方法を決める主体はサービス提供者でしかありえない。プラットフォームによって違いはあるものの、多くの場合、上下にスワイプするタイムラインに投稿が表示され、左右にスワイプするスライドショーにストーリー(24時間で自動消失する、写真や動画を中心とした投稿)が表示されるというものだ。サービス提供者は表示方法を自由に決定できると同時に、表示内容を決定することもできる。ユーザが閲覧する他のユーザの投稿の間に、一般的なユーザの投稿と全く同じ表示方法で、広告を表示させるのだ。
一方でブログは「一人のユーザの投稿を閲覧する行為」を基本とする。一覧方法をサービス提供者が決めてしまうnoteのようなプラットフォームを除き、多くの場合で、ブログの持ち主が表示の方法を詳しく決定できる。訪問者に広告が表示されるブログサービスも多いが、例えば無料版Wordpressで作成されたサイトには、最上部にWordpress自体の細い広告バナーが表示されるだけで、一般的な意味でのWeb広告(枠を買った他者の広告が表示される)はない。Web広告のないサイトでは、「訪問者が何をどのように閲覧するか」がサービス提供者の収益に影響しないので、サービス側が訪問者を引き留めたり [1] 、訪問者に表示される投稿内容を調整したりする必要もない。ユーザが伝えたい情報を、それを受け取りたい他のユーザが受け取るという過程に、サービス提供者が介入しにくいのである。
SNSの利用に比べて、ブログの設立及び管理には多大な手間がかかる。これを克服しない限り、SNSからブログへの逃亡という提案は成立しないということは、私も理解している。
現在私が採用している方法は、Wordpress無料版で適当なテンプレートを選択し、タイトルやサイト内メニューなど最低限の項目を整えて、すぐに投稿を始めるというものだ。私が選んだテンプレートにはタグ機能がなく、投稿を話題ごとに整理して一覧することができない。しかし、そういった仕様は後からでも変更できるので、今はただ投稿を増やしている。
[1] 何人のユーザが広告を見て、そのうち何割がリンクをタップして、そのうち何割が実際に商品を購入したか、という実績がサービス提供者の広告収益につながるため、サービス提供者はさまざまな工夫を凝らして、ユーザのアプリ使用時間を長くする。
2025020250528: redes insociales
SNS(ソーシャル・ネットワーキング・サービス)が台頭し、あらゆる質の発言が同一の方法で表示されるという特徴をもった、きわめて特殊な言論の場が出現した。アテンションエコノミーを前提にこうした場を無料で提供してきた巨大企業が、次第にユーザに対する手のひら返しを始めると、急速にメタクソ化 [1] が進行するようになる。各プラットフォームで黎明期にユーザが感じていたような居心地の良さは消え失せ、今では殺伐としたタイムラインでかろうじて息をするか、ソーシャルメディアの海から這い出る選択肢しかないように思える。
そんな中、私はブログという方法に光を見る。
以前私にとってブログとは、少しマニアックな検索をかけた時に表示され、他の情報源がないから仕方なく参照するものだった。New Jeansの歌詞をカタカナ表記に直してくれているK-popオタクのマダムのアメブロや、電子ドラムのハイハットペダルのセンサー部分のゴムが固化したときの対処法を研究してくれているアマチュアドラマーのFC2ブログには、助けられてきたものである。しかし、基本的にブログは古臭く、時代遅れの、見づらい媒体であるとしか認識していなかったし、今の時代にあえてSNSではなくブログを使う意義を感じていなかった。
考えが変わったのは、菊池トムノ氏の「simple手作り生活」 [2] というBlogger上のブログを見るようになってからだった。ネットの海の中のどこをどう泳いで彼のブログに迷い込んだのか、今では全く覚えていない。
彼はそのブログで、家の設備の修理、節約のための工夫、地域の図書館の本の修理活動、催し物でのギター演奏など、彼の生活について淡々と報告を行う。そこには洗練されたデザインや、印象的な写真や、文学的な示唆があるわけではない。しかし、彼が身の回りの物事を研究対象のように捉え、普段の好奇心によって実験を繰り返しながら生活している様子を眺めていると、不思議と時間が経っている。
「simple手作り生活」には広告が表示されない。いいねやリポスト、コメント欄もなく、菊池氏のメールアドレスが公開されているのみだ。筆者と読者との間に、あるいは読者同士の間に、手軽な相互交流の手段は用意されていない。関係者間に微妙な距離がある。このような距離感のあるオンライン・コミュニケーションの場全体を、私は「非社交的な通信網」と呼ぶようにしたい。SNSはスペイン語でRedes Sociales (社交的通信網)と呼ばれていることから、その対義語としてRedes Insocialesを想定し、本稿の題名とした。
非社交的な通信「網」というからには、私一人が提唱し実践したところで、それを実現することはできない。網には多数の結節点と、点と点とを結ぶ線が必要だ。SNSからの移住先とすべき強靭な土地としてブログを開き、耕すことを、人々に促すことがこのサイトの目的である。そして、第一にこのサイトが、Redes Insocialesの最初の結節点となるべく、一個人のブログとして運営される必要がある。
小難しい話は、おそらく本質的なものではない。端的で素朴な、生活の事実と実感の記述を中心に投稿する予定である。
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[1] コリイ・ドクトロウ氏が記事「Tiktok's enshittification」において用いた語「enshittification」の訳語。
参考:Doctorow, C. (2023, January 21). Pluralistic: Tiktok’s Enshittification (21 Jan 2023). Pluralistic: Daily Links from Cory Doctorow. https://pluralistic.net/2023/01/21/potemkin-ai/#hey-guys ↩︎
[2] 菊池トムノ. (2025, May 28). 山東菜の種を蒔く. Simple手作り生活. https://tomtombox.blogspot.com/
屋久島に向う船の中でも、若者たちはやはり掌の中の画面を見ているか、あるいは眠っている。私の後ろの席では初老の夫婦が、時々なにか話をしながら海や島を眺めている。この世代間の違いは何だろう。
そういえば今日、糸島から鹿児島に移動した車中ではあまり音楽を流さなかった。4時間の移動の間、ただ会話をしていた。話が弾んでいたこともあるだろう、沈黙を埋めなければいけないという意識が生まれなかった。
*
グラント [1] 曰く、今日において我々は、空白を埋めるべきものと考えがちであるという。沈黙や静寂は音声的な空白。暇は時間的な空白。退屈は意識的な空白。空白を埋める、という発想それ自体が、我々を多忙へと駆り立てるものなのではないか。
予定がないのはいいことである。無予定は偶発性の余地をうむ。偶発的事象が思わぬ失敗という形をとって主体の経験に介入したとき、主体の習慣は変更されるかもしれない [2] 。
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[1] 私の高校でALT(外国人指導助手)として働いていた、アメリカ合衆国出身の友人。
[2] 鷲尾涼太郎 (Ed.). (2023, September 7). スマホの向こう側ではなく、目の前のものに誘われる——哲学者・谷川嘉浩と考える「欲望」の見つけ方. DIG THE TEA. https://digthetea.com/2023/09/generation_of_phone/