屋久島に向う船の中でも、若者たちはやはり掌の中の画面を見ているか、あるいは眠っている。私の後ろの席では初老の夫婦が、時々なにか話をしながら海や島を眺めている。この世代間の違いは何だろう。
そういえば今日、糸島から鹿児島に移動した車中ではあまり音楽を流さなかった。4時間の移動の間、ただ会話をしていた。話が弾んでいたこともあるだろう、沈黙を埋めなければいけないという意識が生まれなかった。
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グラント [1] 曰く、今日において我々は、空白を埋めるべきものと考えがちであるという。沈黙や静寂は音声的な空白。暇は時間的な空白。退屈は意識的な空白。空白を埋める、という発想それ自体が、我々を多忙へと駆り立てるものなのではないか。
予定がないのはいいことである。無予定は偶発性の余地をうむ。偶発的事象が思わぬ失敗という形をとって主体の経験に介入したとき、主体の習慣は変更されるかもしれない [2] 。
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[1] 私の高校でALT(外国人指導助手)として働いていた、アメリカ合衆国出身の友人。
[2] 鷲尾涼太郎 (Ed.). (2023, September 7). スマホの向こう側ではなく、目の前のものに誘われる——哲学者・谷川嘉浩と考える「欲望」の見つけ方. DIG THE TEA. https://digthetea.com/2023/09/generation_of_phone/